こんにちは。ぽち太です。
この度は、私のプロフィールページにお越しいただき
ありがとうございます。
これまで私が自分を開示する場が
そんなになかったので、
ついにそれらを公表しようと思います。
私自身、ドキドキです。
いろいろ、𝕏 だけでは語られない
私の裏側、本心、黒いところ?
も見せていきます。
お楽しみに。
ちなみに…
ここを見に来るあなたは相当なおっかけですね。
もしくはぽち太そのものに興味のある、熱心なファン?
正直に言いましょう。
めちゃくちゃ嬉しいです。
今後も追いかけて下さい。
さて、
ここでは、
Xの中では”絶対に”言わない
私のこれまで
私の生い立ち
私の心の動き
まで、
全部、語っていきます。
そして、
その中で出会いを果たした
「情報発信で稼いでいくこと」
この魅力についても全力フル全開全霊で語ります。
ぽち太渾身の「自己開示」。
ぜひ、ご覧ください。
***
あらためて。
私ことぽち太は
どんな人間かというと
30代の女性で
パートナーと
東北の田舎で
仲良く暮らしています。
そもそも、
女性だと知らなかった人もいるんじゃないでしょうか?
Xでの発信のイメージとして
ハツラツ
バリバリ
グイグイ
イケイケ
みたいな印象が強いので、
性別の見えないX内では気付かない方もいるでしょう。
そのくらい、
強く
鋭く
たくましく
生きてまいりました。
私のことを、ゴリゴリに箇条書きすると
・児童福祉・障害福祉に10年以上携わる
・20代で児童サービスの管理者に就任
・持っている資格は保育士、社会福祉士、精神福祉士、防災士、応急手当普及員
・副業収益で600万以上稼いだ
・今は毎月50万以上の収入が入ってくる
・たった3か月でX運用で124万稼いだ
・DMに日々5件10件の相談が来る
・Xひとつで数万円の商品が売れる
・添削企画でのべ70人の応募があった
・言語化のプロ、ファン化のプロと呼ばれる
・人に毎日お礼を言われ、人の成長に携われる
・名探偵コナンが好きで年に3回は映画観に行ったりする
・休日はパートナーと「楽しい」ことをして過ごす
・映画見たりカフェ行ったりお菓子作ったり…
・次の目標は独立、年収3000万。
・夢は1億。起業。女社長。
こんなラインナップをみると
なんだ、順調な人生じゃないか!!
やっぱりイケイケじゃないか!!
と思うかもしれません。
ですが、
案外そうでもなくって
世界は広く、
まだまだ上には上がいます。
コンテンツ販売で一発300万とか500万とか稼ぐ人
20代で数億円の資産を持っている人
年商10億の経営者
などなどなど。
目ん玉が飛び出るくらいの
かけ離れた世界。
こういう話がゴロゴロころがっているのが
”ビジネス”の世界です。
そこにひょっこりと現れた、
ぽち太という凡庸な存在。
私みたいな一般人には
無縁と思われたこの”ビジネス”の世界。
実際は、
学べば学ぶほど面白くて
この沼から抜け出せません。
最初、
Xで副業を始めたときは
・は?ねずみ講???マルチ??
・結局、詐欺商売ってことでしょ
・クリーンな副業ってやっぱ配送業とか動画編集とか…
・正規のお金稼ぎって、やっぱ身を削るしかないのかな
・月5万くらいの副業が一番無難なのかな~
って思いながら情報収集してました。
ですが、
とあるビジネスの「根幹」に触れるような
教材に出会ってからというものの、
私はこの世界を
「もしかして、凄い可能性を秘めてる世界では…??」
と思うようになりました。
冗談ではなく、
そう思いました。
ずっと、
「なにかに依存しない」
「自分に実力が欲しい」
「大事な人をずっと幸せにしたい」
そう思っていた私に
ピッタリだったのが
この「情報発信ビジネス」
ってやつ
だったのです。
どうして私のような人間が
「なにかに依存しない」
「自分に実力が欲しい」
「大事な人をずっと幸せにしたい」
なんてことを
切望していたのかというと
これは私の
生い立ち
生き方
生きていき方
に大きくかかわります。
長いんですが、その話をさせてください。
私はずっと、私の確立した「居場所」が欲しかった。
私の「居場所」を、探していたんです。
その始まりは、
子どもの時から。
*****
完全に「良い子ちゃん」で生きた幼少期
幼少期の私を言葉で表すなら
「おとなしい」
「言うこと聞く子」
「内気な子」
でした。
今でも母に、
「あんたって『反抗期』を腹の中においてきたよね?」
って言われるほど、
反抗しない子でした。
母は、芸術の短大を出ていたので
美術館によく連れてかれてました。
そこで、
「静かに見るんだよ」
と言い聞かされれば
他の館内で騒いでいる子をみて
「びじゅつかんのなかでは、しー、だよね」
と小声で親にわざわざいうような
いわゆる「良い子ちゃん」
だったわけです。
そんな訳で、昔から
人によく見られることばかりを
気にして生きていた。
ですが、
その分、「失敗」には
人一倍、敏感でした。
人と会って悪く思われるのが何より嫌いで
誰かにとっての「不正解」を選んでしまうことを避けて
かなり内気でした。
母はもちろん、一緒に住んでいた祖母にすら、
あまりやんちゃな表出はしていなかったと、
記憶しています。
ですが実をいうと、
ひとたび外に出れば
公園で男子と駆け回り、
木に登って雄たけびをあげ、
虫やカナヘビを素手で捕まえ、
ブランコから身投げしてどこまでとべるか競う(?)
みたいな
かなり野生児でした。笑
内気とはなんなのか。
家の中の方がすましてたんですね。
ゲームも大好き。
ベイブレード大好き。
ポケモン、少年漫画大好き。
そんな自分のキャラを、家の中では隠してたわけです。
一方で、小学校での成績は
100点
100点
100点。
真面目でした。
成績優秀でした。
その時は。
小さいころから二面性があるっていうか、
自然と人によって見せ方を変えていた。
ある意味、失敗が怖いので
人からどう見られているか
凄く意識してたわけですね。
そんな、
「おとなしく」て
「人前では無難」で
「大人の言うことを聞く」
「良い子ちゃん」
は、
華の思春期に差し掛かり、
どう頑張っても
無難
ではいられない
バカでかい「壁」にぶち当たります。
*****
思春期に気付いた、わたしは「少数派」
結局、小学校中学校と、私はずっと
成績優秀に進んでいっていました。
その辺までは、
「良い子」でいられた訳です。
ですが、
それは、中学生のときに発覚しました。
周りの生徒たちが
恋とか
性とか
恋愛とか。
ときめきを覚えだす
いわゆる「思春期」のころ。
私は、根本から「人と違っている」ことに
気づいてしまいました。
そう、
私は、
・
・
・
・
・
「女の子に恋をする」のだと。
気付いてしまいました。
そう、
初めて公の場で話しますが、
私は「同性愛者」なのです。
付き合った人はすべて女性。
現在のパートナーも「女の人」です。
中学生の時に気が付いてからずーーーっと、その形で生きています。
それで、
そこで、
私の「無難に良い子でいたい」生活は
あっけなく終わりました。
終わっちゃったんです。
だって、
自分に正直に生きていたいなら
「無難」には
生きられないからです。
存在自体が、異質。
どうしよう。
皆になんて言おう。
どうやって生きよう。
みなかったことにすればするほど
日常にその「矛盾」は訪れます。
・親戚に「女の子らしさ」を求められることを怖がる
・女の子らしいプレゼント・おもちゃ・遊びが苦手
・恋愛話についていけなくなる
・お嫁さんという言葉に不安を覚える
・将来のイメージがわかなくなる
特に親戚、というのは
田舎ではめちゃくちゃ「怖い」存在で
お客様だからもてなさなきゃいけない とか
お嫁さんになるための「ふるまい」が大事 とか
客だけど「親戚」だから相手は言いたい放題 とか
血族を意識してるから「結婚」「結婚」言う とか
田舎なのでゲリラ的に訪問してくる とかとか。
とにかく、
私には超絶ハードモードの存在でした。
「可愛い女の子に育ったね」
「行儀よくしないとお嫁にいけないよ」
「スカートははかないの?」
今でこそハイハイ、と流せますが、
当時の私が思ってたのは、
怖い。
怖いという感情でした。
「言うこと」を聞けない。
「良い子」でいられない。
「ふるまい」を正せない。
誰ともしゃべりたくない!!
気付けば、親戚に会うのが本当に怖くて
訪問者があるたび、別室にこもっていました。
「ほら、あいさつしなさい」
「なんですぐ引っ込むの」
「座ってお話してきなさい」
「あんたもお茶淹れなさい」
「お茶淹れくらい覚えないとね」
うわーーーーーー無理だーーーーーーー
「ご挨拶くらいしっかりしなさいよ」
「愛想がないんだから」
しまいに母にも怪訝な顔をされる。
まって。
どうしよう。
誰か助けて。
もう「聞き分けの良い子」ではいられなかったのです。
私は、どっか人と違うから。
ちょっとおかしいから。
この場所にふさわしくないから。
あー、おとなしく
そこそこ成功して
そこそこ穏便に
生きていたかったな。
って、当時は何度も思いました。
なんで、当たり前の感覚が、私にはないのだろう。
でも、
自分らしく
ありのままに生きるには、
「人と違う」を
認めないといけない。
隠して生きるのも
耐えられない。
というか、
にじみ出る「違和感」を
指摘されたくない。
どうする?
どうやって生きる?
子どもながらに自分の人生に関わる
大きな「壁」にぶち当たった私は、
その時は目の前の人に
すがるしかありませんでした。
そう。
私は、
私の「内気」を全て捻じ曲げて
ある日、親に言いました。
いわゆる、「カミングアウト」をすることにしたのです。
***
いつだかの学校帰り。
その日は母が迎えにきてくれて、
帰りの車の中だった。
田舎特有のだだっぴろい庭の真ん中に停まった、
母の車の中。
心臓がドキドキしていたのも、
手に汗をかいていたのも全部、覚えている。
「実はさ…」
・
・
・
女の子が、すきなの。
恋愛とか、恋するとか、そういう気持ちになるの。
私って、変なのかな。
…って。
これ、
当時の私にとっては
最大限の「勇気」でした。
親とは相反する考えをこんなに強く伝えたことなんて
これまでありませんでした。
何かにすがりたい
自分の立ち位置が欲しい
居場所を確保したい
私の必死のひと声。
ですが、
その「勇気」は
こう返されました。
「それは、母性とか、お姉さんでいたい気持ちなんじゃない?」
「大丈夫、そういう”時期”なんだよ」
「あなたは優しいから、それは優しくしたい母性だよ」
・
・
・
・
・
あー、そっか。
そうだよね。
うん。
やさしさだったのかもしれない。
受け入れられなかったのかも。
気軽な気持ちだったかも。
そんなハズはないという、
親の焦りだったのかもしれない。
でも、
私は確信していたし、
ノリで相談していたわけじゃない。
気のせいなんかじゃない。
間違いなんかじゃない。
違うのに。
違うのに。
でも
それは、もう言えませんでした。
私の人生初ともいえる
「反抗」は、
受け入れられなかったのです。
無かったことになったのです。
それ以降、
唯一なんでも話せると思っていた
”親”と、溝ができました。
何度も言えばよかったかも。
伝え方を変えてみれば。
親も困っていたかも。
悪気は無かったかも。
はい、
分かってはいましたが、
もう一度渡り合うことが、できませんでした。
そこからはまさかの「大学生」まで、
私はもう一度、
親にその話をすることは、ありませんでした。
それくらい、
深い「溝」が出来たのです。
怖かったのです。
「無難」でいられないことが。
認められないことが。
失敗が。
自分の人生が、「失敗」だと思われるのが。
それ以降、なぜか、
”家族”とか
”家庭”とか
そういう言葉に不安を覚えるようになります。
再度カミングアウトした今でも、
親にもある程度受け入れられた今でも、
その不安はどこか、
私の居場所を、奪っています。
LINEで家族グループつくって会話する
それくらいには仲良しなうちの家族。
でもそこに私は
あんまり出てきません。
ほどほどに。
おめでとうとか
ちょっとした報告とか。
それこそ今までより
さらに無難に。
謙虚に。
𝕏 での私のキャラクターからは、想像できませんよね。笑
同時に、
今思えば
「本音」を話せない世界って
こんなにも息苦しいんだ、ということも
ここから先、ずっと経験することになります。
今はSNSという、
誰もが対等に自分を話せる場があります。
大手だろうと、初心者だろうと。
ここがなかったら
今の私は、
思う存分「本音」で語ることが
出来なかったかもしれません。
嘘や虚勢もはびこる
顔の見えない関係。
SNSはかえって、
私の「居場所」なのです。
本音を隠した世界は、
「自分」がありません。
「居場所」がありません。
本音が見えづらくなったという、今のSNS社会。
私にとってはここが、一番の本音の世界。
私の居場所です。
顔かたちが見えないからこそ
偏見なく会話ができる。
文章でのやり取りで
内面のやり取りで
繋がりができる。
そんな居場所が
今でも心地よいです。
居場所、って、当たり前にあるように見えて
ない人にとっては、すごく苦しいもの。
居場所が欲しい。
私がそのままで要られる場所が。
この考えはこれからも私をずっと苦しめ、
そして私を形作っていくことになります。
***
沢山の「差」に気付く高校時代。ささやかな「反抗」
まあ、毎日鬱々としてるわけでもないので
高校進学をすることになります。
これ以上目立ちたくないので
両親の通った高校に
なんの進路の思いもなく進学します。
そこで、
吹奏楽部に所属して
全国大会に出たりするんですが
そんな外からみたら輝かしいハズの私の「部活動人生」は
実際は思ったよりももやもやしていました。
そのうちのひとつは、
色んな人間の「差」に気付いたことでした。
例えば、貧困差。
楽器ひとつ取ったって、
学校のレンタル楽器使う人。
親から買ってもらえてる人。
自前でパーツを揃えられる人。
色んな”層”がいることに
私は気付いてしまいました。
あー、
人間って
こんな分かりやすく”貧富”の差がここにでちゃうんだ。
って、
なんだか社会の黒いところを見ているようで
嫌でした。
そして私も、決して例には漏れず、
「レンタル楽器」の立場なこと。
うちにはお金はない、ということの裏返しでした。
うちの親って、なんだか子どもにお金の話をしたがらないんですよね。
これは今もそうで、
驚くことに私の推測でしか、
実家の資金については分かりません。
お金の話をしないのが、
なんだか品が良い話だと思っているみたい。
10年ほど前に、祖母が亡くなりましたが
うちの母はその直前も
不謹慎だから、って言って
相続の話をしなくて
亡くなった後に色々苦労したと言っていました。
だから私たちには「お金の話は早いうちにするね」
といって、早10年。
その時はいつ訪れるのでしょうか…笑
とにかく、
私の家って結構、
裕福な方ではないんだな~…
って、気付いてしまったのです。
さらに、
気付いたのが「才能の差」。
私は中学校で面白半分に
始めたのが吹奏楽だったので、(ちなみにサックスです。)
当時の3年生に誘われて
これまた同じ”吹奏楽”に
ほいほい入部したわけですが
これがもう、
抜群に
「センスがない。」
思っているように吹けない。
指が動かない。
楽譜が読めない。
いい音、と言われても出せない。
そこはちゃんと
毎年全国に行くくらいの
強豪校だったので
それはもう、
みっちり指導されました。
されたけど、
出来なかった。
2年の時、レギュラー落ちした。
3年の時、最高学年だからという理由でレギュラー入り。
でも、
後輩の方が、正直上手かった。
パートリーダーだったけど、
自分が一番、吹けなかった。
努力でどうにか出来なかった。
やっとできても、マイナスをゼロにするレベル。
なんか、
むなしかった。
頑張っても頑張っても、追いつけないのが悔しかった。
能力の差、って、
こんなに分かりやすくあるんだな、って
そこで初めて痛感した。
勉強ばっかり頑張っていた私は
そんなことにも気付いていなかったんだ。
別に自分が特別な訳でも
人生逆転出来るわけでも
無いんだな…って。
しまいには、成績もどんどん下がっていた。
どんな時でも中の上辺りにはいたのに、
気付けば
数学とか、20点。
絵描いて遊んでた。
マジで分かんないから。
頑張りたく、ないから。
授業とか、寝てた。起きたら、終わってた。
移動教室の時に置いて行かれかけたりした。
なーーーーーーんか
頑張っても結局、
私なんかは
芸術の才能があるわけでもないし
結局は親が望むような生き方もできないし
優等生にもなり切れない。
これって、
ただ変な特性がある人、だけど「何も持ってない」だけじゃん。
いや、将来どうするよ。
私の将来像、
イズ、どこ。
独り身になるのか??
こういう人ってどうやって生きてんの?
独り身って、「負け組」ってやつ??
私は生涯、負け組なのか??
当時はSNSはおろか
高校生でもギリギリガラケー世代。
今のように情報も多くありませんし、
正しい情報もなんも
あったもんじゃありません。
良い子って、なんなんだろう。
良い生き方、ってなんだろう。
あーーこんな風に考えてる私自身がそもそも「異質」なのかな。
この時の私は、
悪い意味で「すれて」いたかもしれません。
やさぐれぽち太の完成です。
時々、
部活を抜け出しては
2駅さきのミスドで、サボり組と
ドーナツ食べて過ごしてました。
中途半端に「良い子」になろうとした私の、
しょぼい「反抗」。
結局、
夜にはおとなしく家に帰る。
甘える所は甘えて
心も自立できない。
最終、3年の秋。
部活は全国大会に行きました。
ですが、
みんなが出番終わって感極まって泣いている中。
「あー…よかった。もうやらなくていいんだ。」
と思っていたのは、
ここだけの話です。
なんか、青春とか疲れちゃった。
この時期に一気に、子どもながらに
やる気を失ってたんですよね。
中途半端に途中まで
優等生だった私の
しょぼいしょぼい「第二の反抗」。
親にも認識されてなかったから
「反抗期なかった」って
言われてます。
いや、あったわ。
あったんだけど、
あったけど、見せれるほどの意気地が無かった。
こんな歴史、どうってことないでしょう。
もっと苦労した人に比べたら。
ですが私は
ここで初めて、
社会の「差」に
貧富の「差」に
人生の「差」に
生まれの「差」に
気付いたわけです。
親に学校も部活も行かせてもらったのに贅沢なヤツ…って、思いますよね?
まあ結局、
私はなんだかんだ、
まだ社会に対しての解像度が、甘ちゃんだったのです。
勝手に絶望して
勝手に逃げたかった。
どこへ??
私の「居場所」へ。
でも、
居場所ってどこなんだろう。
将来の形も分からないまま、
やりたい仕事も見えないまま、
私は大学へ進学します。
***
大学で得た「自由」と「孤独」とひとつの答え。
大学生。
「人の話を聞くのが上手」という、
唯一探り当てた”強み”から
私は何の気なしに
「福祉」
の道へ飛び込みます。
私立の福祉系大学。
とうぜん、たんまりと奨学金を借りてます。
「あんたを私立にやれるほどウチは金がない」
「申し訳ないけど奨学金を借りてくれ」
って言われて、
ほーい、って申請した奨学金。
これが社会人になっても
自分を苦しめる「借金」だなんて
当時の私、
全然考えてない。
アホの極み。
なーんも先のこと考えてなかったんですね。
福祉系の仕事って
安月給じゃないですか。
そういうのも
何も考えて無かった。
なんか
漠然と相談員、みたいなのに
なりたかったんですね。
「困っている人の力になれたらいいな~」
って思ってた。漠然と。
ただ、
もしかしたら根本には、
誰かに必要とされる「居場所」を
ずっと、求めてたのかもしれません。
***
そんな程度の
思いで入学した大学。
ここから私のひとり暮らしが始まり、
そして私は「自由」を手にします。
これまでは
型にハマった未成年。
夜中に出歩いたりなんて当然なく、
家でぬくぬく、甘々に生きてた。
それが解放されて
夜中に友人の家で夜更かしして遊ぼうが
好きな服着て好きな言葉づかいで好きに時間過ごして
時々授業をサボろうが
真面目に学ばなくても
だ~~~~れも怒らない。
待ってたぜ自由。
これじゃん自由。
やってやろうぜ自由。
私は自由を手に入れて色々ハジケます。
大学デビューってやつですね。
可愛らしいことです。
当時、
完全にボーイッシュスタイルが
気に入っていた私は
髪を切り
スカートを捨て
シャツにネクタイとかして
オシャレもヘッタクレもなく
過ごしてました。
別に今現在は
フェミニンなスタイルも
スカートもおしゃれも
嫌いじゃないんですけど
「どーせあたしゃ特殊だぜーーーなら目立つぜいぇいいぇい」
みたいな、
遅れてきた中二病だったのかもしれません。
そんなこんなで
遅れてやってきた青春で
恋愛
なんかも、やっと経験します。
もう性別がどうとか
咎める人もいないので
友達には自分のことは完全オープンにしていましたね。
しっかりと
同性の方と恋愛とか
失恋とか
そういった
酸っぱい思いも
経験しておりました。
ちなみにこの時付き合っていた方が
一方的に別れを告げてきたうえに、
社会人になってから平然と結婚式に私を呼んできて
心の中で泣きながら
披露宴で歌を
歌ってやったりとか…
めちゃくちゃな恋の終わりを
迎えてたりします。笑
オタクなら聞いたことがある
”バームクーヘンエンド”を地で行ったヤツ。
あれです、
大好きだった元恋人の結婚式に出て
引き出物のバームクーヘンを持ち帰り、
ひとりで食べて泣くやつ。
悲しいですね。
まあただの思い出です。
で、
ここでやっと
SNSというものが普及し始めて
性的少数派だの
LGBTだの
マイノリティだの
っていった言葉にも触れます。
似たような境遇の人にも
いっぱい出会います。
当時、LGBT活動サークルにも所属したりして
権利活動?みたいなのにも参加して。
自由に生きて
仲間にも囲まれて
ついに私の「居場所」はやっと見つかりましたとさ。
と!!!!!
思ったけど
違った。
結局こういったサークル活動からは
足を洗うんですね。
何故か。
私は別に、
同性愛者であることが
アイデンティティじゃないと思ったからです。
真剣に活動をしてる人が良いとか悪いとか
そういう事ですらなくて、
社会と戦うことも
社会で認められることも
社会で権利が得られるとかも
割となんでもよかった。
ただ、
わがままに自分の「居場所」が欲しかった。
だから、
サークルの方向性で小粋なオネエと
やり合ったりとか
後で和解して
オネエと意気投合したりとか
トランスジェンダーの友達と一気飲み対決したりとか
まあ色々あったんですが…
それはそれで面白くて…
話すと長いんですが…
サークルは結局辞めました。
別に似たような属性の人たちの場に所属することで
私の渇望は満たされなかった訳です。
ここじゃないな、と。
ひとつ道が違っていたら私は、
権利団体とかに所属して
LGBTの差別に反対!とかしてたかもしれません。
それが良いとか悪いとか
その議論はここではしないですが
少なくとも、
私の人生はそこにささげたいとは
思えなかったんですよね。
それよりも私は、
何気なく参加した
”障害児”の福祉サービスのボランティア活動で
発達障害のお子さんと出会いました。
そこで社会人としての運命がきまります。
***
当時、
「スーパー”福祉”アルバイター」だった私は
・月曜…児童館でバイトして夜は児童養護施設の夜勤バイト
・火曜…午前寝て午後は障害児施設でバイト
・水曜…児童館でバイト
・木曜…大学付属の保育所でバイト
・金曜…児童養護施設のバイト
みたいな感じで
ずっと「子ども」と過ごしてました。
そこで
衝撃だったのが
発達障害のお子さんたち。
臨機応変な対応が苦手で
予想とズレるとパニック。
友達がおもちゃを貸してくれないと、
怒って私の顔面に水筒をブン投げる。
本人なりの
世界観
価値観
”こだわり”行動。
ビーズを拾ってはパラパラ撒く遊びや
ヒモをぶんぶん振り回すだけの遊びに
2時間、付き合った。
これ、
みなさんなら、
どう思います??
自分の価値観と違うから、ってさじを投げますか?
なんだこいつら、かかわらんどこう…ってなりますか?
私は、
おもしろい、と思った。
そして生きづらかろう、と思った。
家庭ではこんな日々に耐えられないだろう。
本人も怒られて止められて不自由だろう。
って、
真っ先に思いました。
なんか、
行動の突飛さとか以前に、
私はそんな風に思ったんですね。
受け止めようと。
この人たちも”生きづらい”。
居場所が、見つからないでいる。
なら、、
この人たちの「居場所」になろうと。
そりゃもう、
並大抵の物じゃなかったです。
顔面で水筒受け止められるかっていう。
ビーズとヒモで2時間過ごせるかっていう。
それでも私は、
子どもたちの前で
”笑顔”でいたいな、って思ったんですね。
大丈夫な場所でいよう、って。
「居場所」であろう、って。
そう思ったときに初めて、
あ、これが私の
やりたいことかもしれない、って
思いました。
かわいそう、とか、庇護欲、とか、そういう生易しい感情ではない。
どっちかというと
執念。
誰かの”居場所”になることが、
私の”居場所”になるんだ。
承認欲求とか、慈善事業とか、うぬぼれだとか言われてもいい。
偽善でも依存でも、なんとでも言え。
生涯、ボコボコにされながらも、ここを居場所にする。
居場所を作ろう、から
居場所になろう、
そう思いが変わった瞬間でした。
みなさんには
こういう譲れない執念、あるでしょうか。
別に大義で無くてもいい。
ある種、こだわり。
信条・信念。
こういう思いがいつまでも、
私の心を燃やし続けるのです。
熱い思いを抱いた私は、ボランティアでお世話になっていた
その福祉事業所に就職します。
*****
気持ちとは裏腹にどん底の自己肯定感、そしてイージーモードへ
さて、夢を抱いて参入した
社会人生活。
いかにぽち太さんが
イキイキと働いたかというと…
はい、
絶望してました。
具体的には
・7時に出勤して23時に退勤
・初任給、手取り12万
・ボーナスなし
・残業代なし
・飲み会有
のクソクソブラック会社。
ぽち太が何かに向かってクソって言うのは珍しいです。
けど、クソ。
まじクソ。
仕事自体は楽しかったんです。
職員も、いい人ではあったんです。一部。
ですから、
ここでの経験が無駄になったなんて言いません。
毎日、発達障害のある子と走りまわった。
本人の困難に向き合った。
認知について学びまくった。
会社自体の外からの信頼も厚い所でした。
内部研修がしっかりしていて、
地域では進んだ支援をしているところでした。
間違いなく、この時の経験が今の私を作ってます。
で、
それでも
そんな会社でも、
終わらない業務。
社内研修の準備で残業。
当然のようにサビ残。
疲労で社内では事故多発。
報告書を書くと言う名の晒し上げ。
それはそれはひどい有様。
あ、私、
4月に子どものパニックに立ち会って
窓ガラス割りました。
新卒1か月目で。
対応が困難なお子さんを
ひとりで任されて、
事故ったら晒し上げ。
うーん、
当時の私は完全に
自分のせいだと思ってました。
私に技術がないからだと。
でも、「向き合いなさい」と謎の根性論で
引き続き担当につかされます。
その子のことは嫌いじゃなった。
ずっと思い出に残っている。
沢山のことを教えてくれた。
でも、
小学校高学年の男の子で
大きくて(165くらいあった)
力も強くてパニックなりやすくて
怒ると顔面パンチしてくる子を
新卒の157㎝の私に任せるなと。
翌月も目の前で公用車のパーツを壊されました。
私の顔面も幾度となく殴られました。
心が痛い。
身体も痛い。
でも、この子だって、支援が正しければやらずに済んだかもしれない。
私にも、サポートがあれば、こうならなかったかも。
逆に子どもが苦しいのでは。
ごめんね。
ごめんね。
私が不甲斐ないばっかりに。
・
・
・
管理者を経験した今だから思う。
これは職場の問題です。
やり方、教わり方、適材適所。
職場が、上司が考えるべきです。
んーー、、
人って、子どもでもなんでも
他人に殴られると
それだけで心のショックってでかいですよ。
痛いし。
我慢しても。
で、
心が動揺してるところに
お前のせいだ、って言われるんです。
対応が悪いから。
特性を理解してないから。
勉強が足りないからだ、って。
当時は相当キテましたね。
心がボロボロだった。
ただ、ここで凹まずにめちゃくちゃ勉強しまくりました。
本も分からないなりに片っぱし買って読んだ。
上司にも聞きまくった。キレられつつ。
当時、上司に可愛がられていた後輩も
遠回しに、私のことを馬鹿にしてるって知ってた。
嫌いだったけど、その人の立ち回りみて学んだ。
真似た。
真似をしまくった。
この時、
何が何でも意地で食らいついてた経験が
いまの私を作っているといっても過言ではありません。
正直、支援のセンスのなかった私は
職場で好かれる方ではありませんでした。
常勤ではありましたが
1年契約の契約社員で始まりました。
ですが、
3年後にはこの会社の中でも
正社員しかなれない”相談員”にランクアップ。
成人の方の相談も受け付けました。
センスの差ではなく、
知識でなりあがったのです。
というか、
センスって、無理やり知識で
磨けるんですね。
いま情報発信してやっと繋がりましたが。
成人相談も面白いですよ。
精神障害と発達障害のダブルの障害があり
年がら年中不安で電話がかかってくる人。
雑談、という概念が自閉症故になくて
困っている人の「雑談」について考えたり。
一緒に引っ越し先を探したりもしました。
家に行って仕事先を一緒に考えたり。
職業訓練に一緒に参加したり。
働くって、色んな形があるんだ。
生きるって、色んな形があるんだ。
それを学んだのは
大きかったです。
やっぱ、
なんだかんだこの仕事好きなんですね。
結局、
この黒鉄の福祉企業で5年、勤め上げました。
退職するときもひと悶着。
・週7全日勤務で引継ぎ
・帰宅は寝るためのみ
・年度末の書類紛失騒ぎを何故か私のせいにされる
・それで退職後の4月頭に呼び出しを食らう
退職後に呼び出してくるなんて
あり得ないですよね。
洗脳されてたんで行きましたけど。笑
退職した職場で
説教くらってるの、ありえます?
引継ぎがテキトーだって。
7-23時勤務で週7でて
完結しない業務なんて
引き継ぐ前に分散してよ。
ブラック企業、ダメ、絶対。
***
そんな環境から
新しい職場に行ったものですから
次の職場では、
・9時‐18時残業なし
・前よりも給料アップ
・1年で管理者へ格上げ
みたいな、
急にイージーモード訪れました。
なんだ、
この違いは。
ちょっと知識生かすだけでめちゃ感謝される!!
アイディアを形にするだけの時間がある!!
めっちゃ帰宅してから時間ある!!!
え、お金も余裕ある!なにしよ!!
みたいな。
驚きでしたね。
こんなに人権あるものなんだと。笑
まあ私はさすがにブラック企業5年以上なんで
ちょっとやりすぎですけど
基準値を
高く高く
知識を愚直に積み上げた
その先に、こんなイージーモードがあるとは。
立つ場所でこんなに
自分の存在って変わるんだ。
居場所は、ちゃんと選んだ方がいい。
それが今の私の選択にも関わってきます。
苦しいときは、立ち位置から見直してみるのも、アリですね。
さて、
転職して時間が出来て
私にはやらねばならないことがありました。
当時28歳、
私の貯金は、ゼロ。
これ、20代後半にして貯金数万…とかよく言うじゃないですか。
ゼロですゼロ。
リアルゼロ。
なぜかと言うと
前の職場にいたときは
自己肯定感バク下がりで、
自暴自棄で
長く生きていく気力も無かったので、
20代の稼ぎのほとんどを
全部アルコールに変えていました。
職場のバイト生連れて
23時過ぎの町中を
酒飲んで回って
コンビニで酒買って帰宅してあおって寝る。
クレカ決済して
月末に返済。
毎回、ギリギリ給料日に支払いを終えて
残金は5桁。
5桁。
家賃とかもろもろ払って
残り1万円切る時もあった。これが生活費。
1か月1万円生活。
割と地で行ってました。
朝も昼も食べない。
夜酒と少しのおつまみ。
身体壊してしんでしまえばいい、って。
どうせ役に立たない会社員なんだったら、
短く太く好きに酒でも飲んで終わればいい。
そう、本気で思ってた時もありました。
服も、旅行も、おしゃれも、何も楽しまなかった。
足りない分はクレカで回して
また酒を飲みに行く。
その繰り返し。
当然、貯金なんてありません。
いやー、今思うとクレイジーな生き方してましたね。
当時の私が今の預金残高みたら、
泡吹いて倒れるんじゃないかな。
なので、
転職したら
貯金して副業して、って
最初から決めて動いてました。
生活を変えよう。
人生を変えよう。
自分を変えよう。
また、居場所を見つけよう。
その時から、コツコツ貯金を始めた。
自分の生き方を変えようと思ったんです。
環境が変わると人生も変わるって言いますが
本当にその通りだと思います。
そして、
その矢先に出会ったのが
今のパートナーです。
*****
出会いが生んだ新しい”居場所”、守るべき”居場所”
パートナーとは職場で出会いました。
子どもの頃の私みたいな
内気で、
静かで、
顔にでない女性。
私はその年から管理者だったので、
当時は部下として面倒を見ていました。
人と話すのが苦手で
あまり目を見て話さない
休憩中も自分の話とかしない
すっごく静かな子。
どことなく、
これまで相談受けてきた、うつ症状のある若い子たちに似てました。
ずっと暗くて、
誰かにおびえてて
何かを諦めているような。
そして、ドが付くほどつれない。笑
私が「休日とか何して過ごしてます?」と聞くと
「あ、ずっと寝てます」
「ずっと?」
「あ、はい、」
無言。会話終了。
みたいな人ね。
傍から見たら「何だこの部下は!?」って思うかもだけど
なんとなーく、人との距離を縮めたくないんだなー
って思ったんですよね。
もちろん私が避けられてる?訳ではなく
みんなにとってそういう様子だった。
プライベートなところにツッコんじゃいけない
そう思いつつも、気になって気にかけていたんです。
それで、
ある日、泣いて出社してきた。
目真っ赤にしてるの。
どうしたんだろう。
「なんか今日、元気?」って聞くと
ぎょっとした顔で私をみて
「なんで、分かるんですか…?」
「え、びっくりしました…」
「びっくりした…」
「びっくりした…」
ってぼそぼそと言って、
バックヤードに引っ込んでいったんですよ。
後から聞くと、
今までそんな風に気にかけてくれる人、
いなかったんですって。
みんな、自分のことなんて気付かないでスルーするか
めんどくさ…って思って無視されてたって。
そう、段々お判りのように
彼女はメンヘラちゃんなのです。
この後分かるんですけど
色々不運な人生で
その時も苦しんでいた。
過去にとらわれていたみたい。
ひとりで朝から泣いていたって。
自他ともに認めるメンヘラっ子。
でも、
そんなことはいいんです。
メンタルは弱いかも知れないけど
この子はできる事もある。
つれないかもしれないけど、
こうやって気持ちを通わせられる。
私は、ずっと下っ端だった前職時代を思い出し
初めてできたこの部下に
熱心になりつつも
人として興味を持ちました。
どうしたら元気になってくれるかな。
どうしたら笑顔で働けるかな。
どうしたら安心して仕事出来るかな。
初めて持った直属の部下は
私に上司としてのあり方を
教えてくれました。
職場の環境が支援(業務)に影響するという事。
人への教え方にも色々なバリエーションがある事。
クレーマー、困難ケース、一緒に乗り越え互いに成長するという事。
たくさん、たくさん一緒に経験しました。
子どもとのかかわりが上手くいかない時は
頭ごなしに怒らず状況を一緒に
整理して話し合いました。
年上の部下とどうやってやり取りするか
試行錯誤したり。
気付けば私自身、
管理職としても
人としても成長して
保護者やその他多数の部下にも
慕われる存在になっていました。
***
その上で迎えた3月。
彼女の、現パートナーの異動が決まった。
初めての管理者業務の年度末で
初めての部下が異動になってしまう。
寂しさを抱えつつ、
送別会と表して
ふたりでカフェに。
ぜんっぜん言葉を発しなかった彼女も、
その時にはだいぶ、私と話してくれました。
カフェの会話もはずんでいて。
これまで以上に沢山話をした。
そこで初めて聞いたんです。
彼女が、壮絶な家庭で育ったことに。
父親は離婚して消息不明。
母親は精神疾患。
本人は毒親家庭生活。
苗字は3回変わった。
親とは面識を持たないようにしているが
ひっきりなしにしつこいLINEがくる。
と。
(彼女が無視をしてるのに永遠と
マイメロとかお菓子の写真を送ってくる
親のLINEをみせてもらった。。笑)
なぜか、
私に、
イチ上司であるだけの「私」に
教えてくれました。
それは、
人生で初めて私という
「人」を信頼したから
と、のちに言っています。
返報は大きいと
自分の全てをさらしたくなります。
心を預けたくなるんですよね。
それを目の前で体感しました。
本来、こういう話は
他人にすると引いてしまう。
だから言わなかったと。
ずっと自分の中で、我慢してたんですね。きっと。
私は、しみじみと
「それは、ほんとうによく頑張ったね」
と伝えました。
彼女の暗いくらい、人生の話を聞いて、
心の底から、そう思ったから。
その言葉が嬉しかったと
これもまた後で教えてもらいました。
馬鹿にするでもなく
憐れむでもなく
引くでもない
そのねぎらいの言葉が一番うれしかったと。
そういってもらいました。
そういう人だから話せた。
泣くくらい嬉しかった。
そう話していた。
逆に、
いつも人の気持ちばかり考えていた私は
そこまでストレートに褒められたこともなく
そこまで自分に焦点をあてて言われることもなく
ふつーに、
照れてた。
ずっと、居場所を探していたけど
そもそも誰かに認められたかったのは、
私の方でしたから。
自分なんてどうでもいい、
そう思いながら自分で居場所を見失っていたのは、
私の方でしたから。
誰かにとっての
揺るがない居場所になって
また誰かにとっても
私が居場所になって。
そんな場所を、探していた。
それを彼女が教えてくれたんです。
で、
その日から…
あー、はい、私は彼女にぞっこんです。笑
すまんな、これはノロケだ。
だってね!?
自分の事を誰よりも見てくれて
自分の良さを自分以上に知ってて
自分の存在を大事に思ってくれる人
他にいないと思ったんだもん。
惚れましたよ。
えーえー惚れましたとも。
で、
その日以降、
働き先も変わったのをきっかけに
私からの熱烈アプローチで
彼女とお付き合いしました。
さらにいうと
先ほど言ったように
彼女はその生まれ境遇から
ドのつくメンヘラ(自称他称問わず)だったので
一度うつスイッチが入ると
3日くらい音信不通になったり
LINEで無言の既読が付くのが生存確認だったり
精神が限界になると川に入水しようとしたり(!?)
そりゃもう、
色々あるわけですが
私がね、文字通りのビッグラブで
包み込みまくり
「既読無視は元気な証拠!」
「3日粘ればそっと顔を出す!」
「川に入ろうものなら一緒に入って助ける!(流石に実際はしてない)」
の精神で付き合い続けました。
すると、
なんということでしょう。
そこには元気にぽち太と野原を駆け回るぽち嫁の姿が!!
そうです。
彼女の心はだいぶ回復しました。
といっても、
根が要メンタルヘルスケアなので
大事に大事にしてますが。
とにかくこっちの話は話すと長くなるのですが
私には初めて、明確に
「守る人」ができました。
メンヘラぽち嫁と
メンつよぽち太。
かみ合わないようなふたりですが
めちゃくちゃ息が合っている。
このふたりこそ常識破壊。
そんな二人です。
***
それから今年で4年目。
私たちは一緒に暮らしています。
女性同士のふたり暮らしって
穏やかなようで
いろいろ困難があって。
・基本的に低賃金なことが多い
・安全に暮らすのにお金がいる
・何かあったときの保証が低い
お金の面はもちろん
・どうしても周囲の理解が必要
・家庭もちとの格差
・自分たちの身は自分で守る
という精神面の不安も
受け入れなくてはいけません。
そう思ったときに、全部解決するのが
あー、お金要るじゃん。
だと思ったんです。
下世話な話かもしれませんが。。
例えば「この親不孝者!」と思われた時にも
お金があれば違う形で親孝行できる。
将来どうするの?と言われても
お金があれば選択肢が増える。
ルームシェアが可能な物件は少ないけど
お金があれば選ぶこともできる。
老後も質の低い医療や介護のサービスで
無駄に同性愛差別されなくていい。
安心はお金で買える、というように
私たちが安心して生きるために
私たちがやりたいことを実現するために
私たちが世間に不自由なく参加するために
お金が必要なんですね。
お金稼いで
贅沢したいとかじゃない。
私は
私の人生を
ふたりの人生を
邪魔するモノを消すために
お金がほしい。
稼ぎたい。
そう思って「副業」の世界に足を踏み入れました。
これが二つ目の、
執念です。
たくさん稼いで贅沢な生活しちゃおー!
とかよりも
自分の夢を大事な人と何不自由なく叶えたい。
自分の「居場所」を自分で確保したい。
これが私のもう一つの執念。
でも、
この二つの「執念」を叶えるには
この時の私はまだまだ
へっぽこです。
口で言うにはいくらでも言える。
ここからが勝負。
*****
最初の居場所「SNS」が、スタートの地に。
仕事を変え
守る人ができ
居場所が見えて
目標を見つけられた。
じゃあそこに行くまでどうしよう。
ぽち太のスタートはここからでした。
これまで自分の為に
なーーーんにも蓄えがなかった状態。
仕事を変えて
ほそぼそ貯金し始めた。
福祉の夢も諦めたくない。
ここからブーストをかけるにはこのままじゃダメ。
それで
あ、副業するか。
ってなったんですね。
結構みなさんも似たようなルートを辿ったかもしれませんが
副業のYoutubeをみて
クラウドソーシングサイトに登録して
ウーバーとかの情報みて
うーん在宅でできる仕事ないかな~
アンケート案件10円かー
chatGPTでブログ記事?⇒
やってみたら結局時間の切り売りだった
うーん違うなー
副業としてもっと続けられるのがいいなー
って試行錯誤する感じ。
で、色々見ていると
私の第一の居場所
「Twitter(𝕏)」に
Tipsアフィリエイトってやつがあるらしいと。
コンテンツを紹介して
紹介料をもらう。
初心者でもすぐ取り組めるんだと。
ほーーーん。
いいじゃん。
それは2023年5月。
まさにコンテンツアフィリエイトが
加熱しだした頃でしたね。
ぽーんと
その世界に飛び込みました。
で、
しょっぱな5万くらい
買うだけ買った。
そして、
全然売れなかった。
あげく、
成功者を雰囲気だけ真似して
・買わねえ奴いねえよなあ???
・読まない奴は損してる
・今買わないと値上げーー
みたいな
ダサダサ訴求して爆死してた。笑
これ、当時始めた人は
みんな通過してるかもですね。
今ほど初心者までノウハウが出回ってませんでしたから。
いや、私のキャッチ能力がまだ無かったのかもしれません。
これを書いているのは2024年4月。
たった1年でこの変化。
情報発信の世界は目まぐるしいですね。
だから可能性だらけなんです。
とにかく、
あーこれいろいろテクニックというか
学ばないとダメなんだわーって
あいも変わらず𝕏 を
情報収集の為に
徘徊していたところ
見つけちゃったんです。
沼を。
大沼を。
その人が発信するノウハウも
発言もマインドも
他の「じゃぶじゃぶ稼ごうぜーーー」みたいな
空っぽで飛び込む感じの訴求ではなくて、
この人、なにか持ってるな
この人、本質を知ってるな
この人、裏がかなりあるな
みたいな
唯一無二感。
全能感。
個人的に一番惹かれたのは
「僕の発言にはぜんぶ裏があります」
というひと言。
なんだそれ。
気になる。
ふつーに発信してちゃ
人は寄ってこない。
やり方がある。
そのやり方をこの人は知ってる(っぽい)。
これです。
私の知りたいことを知ってる(っぽい)。
これに一番惹かれたわけです。
(ある意味、ブランディングですね。)
それで、
この方の教材を買ってみました。
あーーー世界開けましたとも。
なるほど!
すごい!
わかった!
の連続。
というか、これまでのコンテンツって
おおーーーこれで稼げるーーー
あと3日で販売だーうおーーー
買うぞ買うぞ買うぞーー
買ったーーー!!
読むぞー!!
んー、なるほどね。
で、始めるにはどうするの?
あ、そこは自力ね。
ていうか、結構これアングラじゃん。
ていうか、結局その時間とれないじゃん。
ていうか、そこまでに至る過程が知りたいのよ。
…うーん。
放置。
みたいな、
買う時が一番テンション高い
コンテンツばっかりだったんですね。
だから、
商品買ってみて
内容みてからテンション上がるというか
これこれ!!
これじゃん!!!
この通りやったら成功するわ!!
全部詰め込まれてんじゃん!!!
みたいなのに出会えて
完全に
「見えた!」
って思ったわけです。
合理的に考えられた訳じゃないですよ。
でも飛び込んで見たいと初めて思えた。
チャンスを逃したらいけないと思った。
𝕏 という娯楽性の高いSNSで
裏付けされた方法で発信できて
さらにその知識がビジネスにも繋がる。
・始めやすくて
・時間の切り売り以上の価値があって
・あわよくば将来起業に向けたビジネス的なスキルが身につく
こんな私のしたたかな欲望が
全部叶う方法あるじゃん。
そう思って
・ライティング
・ブランディング
・マーケティング
・セールス
・ファン化戦略
こういった世界に私は足を踏み入れました。
ビビッとくる出会いって、
あるんですね。
その師匠との出会いで、私は一気に3か月、走り抜けました。
その間だけで124万稼いだ。
3か月で124万。
ここまで福祉一本で
なんの装備も持たなかった
ビジネス初心者が、です。
これって、凄い事だと思いませんか?
だって、福祉の支援スキルだって、何年と積み重ねてやっと
一人前と言えるくらいになったというのに。
たった3か月、ガチっただけ。
行動が顕著に、
結果に出たんです。
しかもその時には、沢山のビジネス知識がこの手にある。
なんか稼げる方法「だけ」って
分かってもアガらないっていうか
「あとはやるだけ」になる。
実はこれが一番
会社員と同じ状況になってしまうという罠です。
スケールアップしない。
淡々とした作業。
ツールがダメなら
流行りが終われば
衰退する。
そしたら手元には何もない。それが嫌だった。
学びがない副業は
すごく味気ない。
続かない。
私は、まだまだ無限に学び方、発信内容がある
この𝕏 マーケの世界が楽しくてしかたありません。
なぜなら、
方法にすがって生きる
トレンドにすがって稼ぐ
有名人のおひざ元にすり寄る
こんな稼ぎ方と違って
自分の立ち位置がある
自分の影響力を高められる
自分自身に価値が付くようになる
こんな「居場所」を自分で構築できる方法、
ほかにないんですもん。
*****
情報を伝え、みんなの「居場所」を作る人に
情報発信ですぐ100万以上稼ぎ、
トータル600万以上の副収入を得て
ついにフリーランスになるという時、
一応、親にも報告しました。
正直、ちょっと怖かった。
また否定されるのかな…と。
30にもなってですけどね。
ただ、その時に納得してもらえるだけの
資金提示と説明はできる。
私は前のように
相手の好意に頼らなくて
良くなったのですから。
誰かのいい子ちゃんでいる必要は無いのですから。
自分で自分の居場所を作れるのですから。
そして、
思い切って報告した時、
全然そんな心配はいらなかった。
むしろ、
「あなたができると思うならやったらいい」
「ヤバかったらいつでも頼りなさい」
「〇〇ちゃん(パートナー)とも仲良くね」
って、
大歓迎されました。
もちろん、それまでの間に色々親子間で葛藤はありましたし
そこで培われたやり取りが実った、という事でもあるでしょう。
ずっと否定されていたわけでも、
ずっと嫌ってるわけでもない。
(むしろ仲良し)
ですが、
お金の余裕があって
心の余裕があって
やっとお互い向き合うことができる。
そこで初めて、親子間の中でも居場所ができた
そういう事なのかな、って思っています。
全てが、といったらアレですが
全てがいい方向に回りだす。
イキイキ生きることができる。
私の「居場所」は、少しずつ広がっています。
***
私の信念はずっと揺るぎません。
*東北一の児童福祉施設をつくりあげる
*パートナーとの人生を誰よりも豊かに生きる
ですが、
この情報発信ビジネスを初めて
もうひとつの思いが生まれました。
学びを広めることで、ここでも誰かの「居場所」を作れるかも。
これは、
私自身がSNSが居場所であったこと
お金や心が豊かになると居場所ができること
ずっと前から誰かの居場所をつくりたかったこと
そして今、このビジネスで自分の居場所ができつつあること
こうしたこれまでの
全部の思いが合わさって
導き出されたひとつの答えです。
差別とかしがらみとか
会社とか要らん規則とか
そういうの全部、
囚われなくていい。
一回しかない人生、自由に夢を叶えて生きたい。
だけど、
生まれの差がある
貧富の差がある
能力の差がある
スキルに差がある
こんな事で自由を奪われたくはない。
奪われる必要はない。
そう思ったときに、
この爆発的パワーのある、情報発信は最高の仕事。
どんなにどん底からでも、やり直せる。
しかも
自分だけじゃなく、人にも作用する。
考えが、思いが、みんなコンテンツになる。
こんなパーフェクトな仕事、
他にありません。
この想いだけで、
私はこの4月、フリーランスとなりました。
大好きだった福祉の仕事。
これからも思い入れのある場所。
起業するために一度離れるなんて、変わり者かもしれません。
それに
冒頭でも言ったように、まだまだこの世界には
たくさんの猛者がいます。
私の変化は、まだ一歩目。
小さな一歩です。
ですが
多くの人間からみたら、栄誉ある一歩目です。
今度は、みなさんの番。
私のまず目の前の目標は
みなさんの一歩を応援すること。
そこに還元してくこと。
それが月5万かも。
30万かも。100万かも。
人によって違うと思いますが、
みなさんが自分の「居場所」にたどり着く一歩。
ここに携われたら、最高です。
そしたら私自身が今度は、
二歩目、三歩目を歩みだせるやもしれません。
ますます広がっていく。
ますます面白くなる。
私の人生が。
私の可能性が。
私の「居場所」が。
***
長々と閲覧、ありがとうございました。
これが、私のざっくりとした物語。
私の居場所探しの軌跡です。
恐れていた通り、2万字以上あります。笑
こんなに自分の事を語ったことは、ありません。
なんか気付いたことあったよーとか
私も吹奏楽してたよーとか
感動したーー!とか
共感することとか
感じたことがあったら
ぜひLINEでも𝕏 ででも教えて下さい。
商品の感想も嬉しいですが、
自分のことへの感想なんて
天に昇るくらい嬉しいですからね。
ここから、
あなたの物語も変えられます。
起承転結の「転」。
起こすのは今かもしれませんよ。
一緒に楽しく情報発信しながら歩みだしましょう✨
それでは、ありがとうございました。
2024.04 ぽち太
コメント